こんにちは。松阪市の海住さつきです。
日航ジャンボ機墜落事故から34年。
あの日、私は、あの山がオレンジ色に染まるのを見た。
大学の夏休みを利用して、一か月、長野県川上村のレタス畑で住み込みのアルバイトをしていた。
レタス農家の夏は、まさに戦場。
毎日、農協が、翌日のレタス出荷数を決め、それを、各レタス農家に振り分ける。
農家の人は、畑に向かってアナウンスされる内容を聞きながら、
「明日の朝は何時に起きればいいか」
を逆算する。
出荷数が多い時は、朝1時起き。
少ない時でも、3時起きとか。
当時の私は、やせっぽちで(体重が40キロそこそこ)見るからに体力がなかったため、
せっかくアルバイトを雇ったのに、
農家の人が「あんたは、畑に出なくていいから、家のことを全部やってほしい」
と言ってくれたので、
家族全員が深夜に起きてレタス畑へ行った後、
ひとりゆっくり5時に起きて、
6時から家事を始めるのが日課だった。
掃除、洗濯、料理が主で、
特に、深夜から仕事をして、出荷を終えた後、
家族はくたくたになって帰ってくるので、
それに合わせて、
力のつく朝食を準備するのは最も重要な任務とされた。
畑で採れたレタス、トマト、トウモロコシなどは食べ放題。
ご飯を炊いて、
味噌汁、卵焼きなど、家族のリクエストに応えていろいろ作っていた。
日航機が墜落したあの日、
夕方、畑で、「山がオレンジ色に染まっている」と言う人がいたので、
みんなで見た。
「火事だろう」ということになり、
住み込んでいた農家の長男が消防団員だったので、
消防の服に着替えて「様子みてくる」と出て行った。
その時点では、日本中の誰もまだ、飛行機が落ちたなんて知らなかったから、
のん気にしていたけど、
だんだんとニュースが入ってくるようになり、
「でょっと出てくる」と言ったきり、音信不通になり、帰って来ない長男を心配したお母さんが、
テレビの前から動かなくなった。
たしか、三日間帰らず、捜索活動から一時帰宅した時には、
げっそりしていたけど、
近所の人たちがみんな話を聞きに来たので、一生懸命、説明してくれたことを覚えている。
いつもは新聞を読まない家族が、
いっぱい新聞を買ってきて、くまなく読んでいた。
レタス畑は繁忙期だったので、
そのうち、出荷作業も元に戻ったはずだけど、
人生初の農家でのアルバイトに、
ジャンボ機墜落事故が重なり、
衝撃の夏だった。
アルバイト代は、
全額を貯めて、
その年の冬、イギリスへ留学する費用にした。
あの夏、
レタス農家でアルバイトをしなければ、
歴史に残る日航機墜落事故を間近で見ることはなかっただろうし、
アルバイト代を全部貯金して留学にあてることもなかっただろう。
人生を変える事故・災害との一回目の出会いだった。
(二回目は阪神淡路大震災。三回目は東日本大震災)
毎年、この時期になると、
あの日のオレンジ色に染まった空を思い出す。
命の尊さ、はかなさをかみしめながら、
祈りをささげたいと思う。
https://youtu.be/64NgXKRnWbM