私の志

災害が人生の転機 消防団員から市長へ 防災に強いまちづくり

こんにちは。松阪市の海住さつきです。

昨日、「人生で一番、影響を受けた出来事は何ですか?」と尋ねられ、

お答えしながら気がついた。

 

私は、大きな事故や災害が起こると人生が変わるタイプらしい。

 

一回目は、学生時代、夏休みに長野県のレタス畑で住み込みのアルバイトをしていた時、

日航機墜落事故が間近であったこと。

山がオレンジ色に染まっていて、

何だろう?と地元の人たちと話していたら、

住み込み先の消防団員のお兄さんに出動命令があり、

三日間帰って来なかった。

まだ、墜落箇所もわからない時に、

山に歩いて登って捜索活動していたとのこと。

この時、

文明は絶対ではない、

落ちないと言われていた飛行機でも落ちるのだということを学んだ。

それ以来、

家を出る時には、

絶対に家族とケンカをしないようにしている。

それが最後の別れになるかもしれないから。

 

二回目は、阪神淡路大震災。

地震が起こった朝、

三重県津市から岡山県岡山市に出勤するため、家を出て、近鉄に乗った(近鉄線はこの時、まだ動いていた)。

毎週、月曜日の始発で岡山へ出勤。

9時の始業に間に合わないので、

15分だけフレックス出勤にして、

9:15にタイムカードを押していた(フレックスタイム制がある会社で本当によかった)。

金曜日の夜、退社とともに新幹線に乗り、

津市へ帰宅。

土日は朝から晩まで一歩も家を出ず、

ずーっと授業。

2年間、会社員をやりながら、自宅で塾を開業していて、

一日も休みがなかった。

阪神淡路大震災のあった朝、

大阪の鶴橋まで近鉄で行ったら、

JRが不通の張り紙が。

その時点では、誰もまだ原因を知らなかった。

仕方がないので家に戻り、

会社に「JRが動いていないので出社できません」と電話して、2年間で初めて仕事を休んだ。

まさか、それが会社員生活の最後になるとは。

なぜなら、山陽新幹線の復旧はメドがたたず、

どうやっても三重から岡山へ行けないことがわかった。

塾か会社か?

その時、受験生の生徒が一人いて、

その子がどうしても合格させてほしいというから、

塾専業になることを決意。

高知まで飛行機で行って、そこから鉄道に乗り換えて岡山に行くというルートをやっと見つけて、

会社に行き、そのまま退社。

2月に塾を設立した。

地震がなかったら、当分、兼業を続けていたにちがいない。

 

三回目は、3.11の東日本大震災。

あの時は、周りの人がどんどんボランティアに行くと言って準備を始め、

生徒も一人、ボラバスに乗って行くことになった。

私も何かしたかったが、塾があるから、

たとえ一泊でも家を離れるのは無理。

だったら何ができるだろうと考えていたところ、

「女性消防団員募集」のポスターを見かけて、

これだ!と思い、即入団。

それまでは、人生=仕事 で、365日休みなしで働いていた私が、

日曜日は消防関係の用事で、仕事を休むように。

地域の防災のことを真剣に考えるようになり、

体力づくりにも励むなど、

アウトドアな人生に急転換。

あの時、消防団に入っていなかったら、今の私はない。

今回、松阪市のかじ取りをさせてほしいと手を上げた。

平常時には、誰がなっても組織が動いてくれるからあまり違いはないかもしれない。

しかし、事故や災害が起こって、

今すぐ、何とかしないと人命救助ができない、

たくさんの人の安全が確保できない、という時は、

強いリーダーシップが求められる。

瞬時に、何かを捨てて、何かを選ぶことをしなければならない。

その時に、

何を優先させるのか、

それは、平時からの準備、心構えが大きくものを言う。

私は、

そんな時、

助けを待っている人のことはもちろんのこと、

助けに行く人たち、

消防職員や消防団員、市職員など、

たくさんの現場で働く人々の安全や、その人たちの家族のことを真っ先に考えたい。

 

日航機墜落事故、

阪神淡路大震災、

東日本大震災、

どの現場でも、

あまりにも多くの現場の職員さんたちが犠牲になった。

災害の規模が大きすぎて、仕方がなかったという受け止め方がされているけれど、

例えば消防関係では、

過去の火災の事故に学び、

装備や訓練を変えて、

同じ悲劇が二度と起こらないようにしているように、

私たちは、過去の災害に学ばなければならない。

今、それができているだろうか?と周りを見たら、

消防職員も消防団員もあまりにも寡黙で、

与えられた範囲の予算を装備で黙々と訓練している。

これではいけない、

もっと市民が災害をわがこととして考え、

いざという時に頼りにする消防職員、消防団員の安全を確保してこそ、

市民の安全も守られるということを大前提に、

防災計画を作っていきたい。

 

例えば、今、30分ルールというのがあり、

地震があって、津波が来ることが予想される時、

消防団員は津波到達時刻の30分前に退避することとなっている。

南海トラフ巨大地震の津波到達時間は、松阪港で58分。

地震があって、

消防団員に出動命令が出て、

現地に行って、

点呼した時点で、

最初の30分はとうに過ぎていて、

退避時間になるのではないかと私は思う。

防災計画には、「30分を目途に退避します」とさらっと書いてあるけれど、

それに基づいた訓練を積んでいるわけでもない消防団員が、

果たして、安全に退避できるのか。

そんなことを考えると、

装備もままならない分団も多い中、

消防団に求められる責任だけがどんどん大きくなっていき、

ただでさえ、団員不足に苦しんでいるのに、

ますます、団員が減っていくのではないか。

そんなことが、

消防団だけではなく、

自治会や民生委員など、

私たちの身の回りでたくさん起こっている。

「住民のみなさんのお力を借りて」というのは簡単だけど、

どんどん仕事を外へ出していき、

実際、それで現場が回るのかどうか、

誰も把握していないのが、

現在の住民自治の現状だと思う。

 

そんな状況を変えていきたい。

地域のことは自分たちで守る、ということが基本ではあるけれど、

過去の災害の例をみていると、

災対本部がしっかりしているかどうかで、

住民の安心、安全は雲泥の差が出ている。

 

防災に強いまちづくりは、一朝一夕にはできないが、

土台がしっかりできれば、

すべてのまちづくりの基盤となるはず。

 

がんばってまいります。